プロフィール
東京大学工学部建築学科卒業
工学博士
一級建築士
広島大学工学部助手・助教授を経て、1999年広島大学文学部教授。
2018年定年退職。専門は日本建築史および城郭史で、神社・寺院・城郭・書院・茶室・民家などの調査研究、城郭の復元研究、古建築の修理指導、社寺建築や城郭建築の復元設計などを行っている。
鞆の浦・竹原などの伝統的建造物群の調査も担当。上田城・松代城・諏訪原城・名古屋城・赤穂城・岡山城・福山城・月山富田城・津和野城・宇和島城・原爆ドームなどの国史跡の整備委員会委員などを兼任。
著書は『神社の本殿』(吉川弘文館)、『城のつくり方図典』(小学館)、『城の鑑賞基礎知識』(至文堂)、『日本の宝鞆の浦を歩く』(南々社)など多数。
日本を代表する農村集落なら世界文化遺産の白川郷、海運国日本を象徴する港町なら鞆の浦です
良い港の条件は、水深がある程度大きく、湾や島影といった荒天時の波浪を避けられることです。
川が流れ込むと、土砂が堆積して港が埋まるので、川はないほうがよく、山が迫る海岸が好適地でした。下関・上関(かみのせき)(山口県)・蒲刈(かまがり)(広島県)・御手洗(みたらい)(同)・尾道・鞆の浦・下津井(しもつい)(岡山県)・牛窓(うしまど)(同)・室津(むろつ)(兵庫県)といった江戸時代に大繁栄した瀬戸内の港町は、そうした良港でした。そして港町には、その強大な経済力によって多くの人々が集まって来ました。
ところが良港であるがゆえに山が海に迫り、家を建てる平地が乏しかったのです。いきおい、人口の超過密都市になりました。それとは対照的に、広島・岡山・姫路といった城下町は、広大な平地に建設された新しい都市なので土地に余裕があり、人口密度は港町と比べると随分と希薄でした。港町から見れば、多くの現代都市の起源となった城下町なぞは田舎町なのです。瀬戸内最大級の港町だった鞆の浦は、全国一の大都会だったのです。
港町では、その中心街路は1本しか通せず、それに面して町家が隙間なく、ぎっしりと並んで建てられました。1軒の町家の表間口は、1間半(約3m)から2間(約4m)が標準で、城下町の町家の半分以下の大きさでした。そのため、敷地は目一杯に利用し、隣家どうしは完全に壁が密着しています。時には隣家の外壁を利用して、自家の外壁を省略して建てた、寄生植物ならぬ寄生町家さえありました。
江戸時代の港町の多くは、そうした極限状態の過密都市でした。そして、その全国唯一かつ最大の現存例が鞆の浦なのです。